苧麻(カラムシ)の勉強会。

長野県は古代には「科野の国」と呼ばれていました。奈良時代に既に「科野」という文字が使われ、その後「信濃」に名前が変りました。

その「信濃国」に律令制に伴い幾つかの郡が置かれましたが、その筆頭に「麻績郡」が出てきます。その「麻績」ですが、使われている漢字から私も「麻」との関連を思っていました。奈良時代、朝廷に献上する税を「租庸調」と言いますが、その意味は以下の通りと言われています。

税の内容
【祖】〔水田〕稲(収穫の3%)
【庸】〔21歳以上の男子〕布(麻布):労役のかわり
【調】〔17歳以上の男子〕絹、糸、真綿、特産物

その中で「麻」は布として「庸」としてありますし、糸として「調」と両方にかかるので、当時大変重要な製品だってと思っていました。また「麻」が「大麻」を指していたのだろうとも。

先日、「カラムシ」(苧麻)という存在を知りました。「大麻」が「麻」だと思っていましたが、奈良時代から「庸」として献上されていた「麻布」は大麻の布では無く、苧麻の布なのだということで認識を新たにしました。

筑北の谷は昔は重要な場所で、東山道などの主要な道が通り、また「麻績御厨(おみのみくりや)」という伊勢神宮の荘園が置かれていたりしました。

ここで言葉を統一しておきますが、「麻績御厨」の前の「麻績郡(おみのこおり)」支配範囲が麻績と筑北村そして生坂村一帯、美麻村・大岡村辺りまでを指していたようです。そのうちの生坂村を含む筑北と麻績をこの紹介文章では「麻績の谷」と書きます。

「麻績の谷」で奈良時代から生産されて、中央の貴族の間でも貴重な布と喜ばれていたのは、「苧麻布」でした。正倉院御物に治められている信濃からの布は、苧麻で作られた布で、いかに当時から珍重されていたのか分かります。

苧麻の栽培と布作りはつい最近までは農村で盛んにつくられていましたが、大阪万博以降の著しい近代化の波に遭い苧麻布は化学繊維布に置き換わられ、ほとんどの村から姿を消しました。今村として苧麻似力を入れているのは福島県奥会津の昭和村ぐらいで、「麻績の谷」でも苧麻を復活させようと麻績村で動き始めました。

その勉強会が平成29年3月19日に麻績役場で開催され、私たちも誘われて苧麻を初めて見てきました。まだ文章に出来ないほど豊富な内容でしたが、少し写真を撮ってきましたので、ご覧ください。

 

苧麻の説明1

苧麻の繊維を説明しています。手前左側に折りたたまれているのは、苧麻で織られた越後上布。

苧麻説明2

苧麻の粗皮を剥ぐ台です。講師の彼女が実際に、昭和村で使っていたものです。手元では「粗皮」を剥ぎ白い繊維のカワになって物から細い繊維を分けて「糸をおむ」作業を実演しています。

麻績の意味は麻(お)を紡ぐ(績)から来ているとのことです。

苧麻の着物

上の実演している場所に、折りたたまれておかれていた着物です。長さは足までの長さで薄く透いている布。「越後上布」の着物です。歴史面から講演して頂いた宮下健司先生によると「江戸時代まで遡る」と感歎されていた着物です。触る路柔らかく腰がある100年以上、場合には200年経たとは思えない生地です。

これから麻績村では苧麻の復活から初めて、苧麻布作りまで時間をかけて取り組んでいくでしょう。

 


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